浜松の中心市街地活性化について今思うこと

何故浜松の中心市街地が衰退しているのかというと、中心市街地には商業しかないからである。
何故中心市街地に商業しかないと衰退してしまうのかといえば、商業だけの価値観で比べたら明らかにイオンの方が便利だからである。
中心市街地が商業論理でイオンに適うはずがない。車で行けるし便利だし。イオンの存在は無視出来ない。
ということは、中心市街地をどうにかしたいと思うのであれば、商業以外の価値観を入れないといけないのである。思い切って便利さはイオンに任せよう。

ここで言う、商業以外の価値観とは何か?
それはすなわち、
生活、歴史、芸術、教育、街並み、国際性(=日系ブラジル人)、憩い
といった類のものである。
商業で破綻した今、これらの価値観を市街地に入れ込むしか選択肢はないのである。具体的には、住宅のようなもの、SOHOのようなもの、公園のようなもの、アトリエのようなもの、展示場所のようなもの、小さな図書館のようなもの、診療所のようなもの、などである。すべてに「のようなもの」がついているのは単一の主体、単一の機能だけを一つの空間にいれても単一の論理でしか回収されないからである。
ただ、今もなんとか残っているお店にはそれなりの基礎体力と創造性があるはずだから、彼らには引き続き頑張ってもらえばいい。商業がなくなったら良いといっているわけではない。

人口縮小によってこれ以上の床がもう要らない今、ひとまずストックを最大限活用し、上記要素を挿入していくことが最も現実的な解決策である。もちろん、ビルバオのグッゲンハイムのように一つの新しい建築の力で爆発させる可能性もあるが、アクトの失敗によって箱物に対する不信感が募った今は、ストック利用の方が現実的かと。建築的信頼が回復したら、その時また考えればいい。
浜松の街中には少し古い、いい感じの中層ビルがたくさんある。もはや大きなマンションや居酒屋ビルを建てても焼け石に水であるのは明白であるし、5年持てばいい方なのである。マンションが建つのは街が悪いのではなく、そこにマンションを建てて儲けようとする企業の見当が間違っている。もう方向性を考えないと建設業界は潰れますよね。

上記を進める上で最も重要なことがある。市民全員が「中心市街地は、現時点で商業的に価値がない」ということを一旦認めないといけないということである。地主も含めて。それは現状を見れば明らかである。中心市街地の空室率は目分量で5割を超えている。よって、今、そこを使ってくれる主体がいるとすれば、「使ってくれてありがとう、むしろお金あげます」くらいのスタンスでないと誰も今の廃れた中心市街地にコミットしてくれない。
ただこれは、今、の話であって、活性化が進めば商業的価値もある程度取り戻せるかもしれない(しかしあくまで目指すのは商業的な成功ではなく、文化的な成功である)。現状を認め、誰かが我慢しないと無理なのは明らかなのである。こうなってしまったんだからそれは上の既得権益世代の責任でしょう。
だから地域の行政、企業、慈善家、一般寄付など総合的な金銭の支援がまずもって必要である。短期的に見れば確実に赤字であるが、それは予算という一つの切り口でだけの判断であって、必ずしも正しくはない。じいちゃん、ばあちゃん、健康器具や高すぎる日本地図を買うくらいなら寄付を!
長期的展望と懐の深さが必要である。ここは既得権益の心意気に期待せざるを得ない。僕ら若い世代にはお金だけがないのだから。

どのような活動を入れるか、どのようなリノベーションを施すかといった方法については広くアイデアを求めればいい。行政からはアイデアは出てこないので、例えば100箇所空き室、空きビル、空き地を市が一括契約し、建築家やデザイナーにオープンコンペをかける。建築家は、特に若手は仕事に飢えているので基数は多い方が参加者も増える。建築家にはそこをどのように使うかまで提案してもらえばいい。

その際最も大事なことは各主体の連携である。

今浜松には、
行政、街中にぎわい協議会、若手個人事業主によるネットワーク、静文芸、ゆりの木、肴町、有楽街、商工会、
などという中心市街地どうにかしようという主体が存在している。しかしこの主体同士の連携は皆無である。

中心市街地を良くしたいという、目指すべき方向性は一致しているのは明らかであるからちょっとした意識改革と方向性の提示、相互ネットワークの実感があるだけで達成され得るであろう。

各主体のどっかだけ良くなるなんてことはありえない。何故なら、それは合理化されたひとり勝ち最高という商業倫理であって、専門化合理化機能主義はもう立ち行かない。のは結果として眼前にあるのだから。

以上のことは十分可能だ、と個人的には思っている。